Kalessin Action ― The Never Ending Endeavour ―

地震・火山専門の研究開発員のブログ。あららぎハカセ(理学)。つくばで高いところに行くモノ🛰の中身を作ってます。

それでも,残して欲しい.

あくまで本来は,当事者の問題ですし,他に発言するに相応しい学者研究者の方が大勢いらっしゃるので黙っておくつもりだったのですが,事ここに至り,発言する人が殆どいないのでせめて悔いが残らないようにと思い,書くことにします.


南三陸町の防災庁舎の事です.


既に来年頭,慰霊祭を執り行なった上,解体工事に着手することが,決まってしまったようです.しかし,私はあの遺構を,なんとか残しておいて欲しいと思っています.予めお断りしますが,人が大勢亡くなられていることもあり,気分が悪くなる人もいると思うので,そういう話題に触れられるのが嫌な人は読まない方がいいと思います.


私は縁あって,今は都内の地震,火山関係の大学院で勉強しています.と書くと,原発事故の話を東電社員がするようなものなので恐縮ですが.厳密に言うと巨大地震津波は,研究発表を聞く機会はありますが,専門ではありません.さて,そんな私がたまに家族(こんな私ですが,一応肉親はいるのです)と話していると南三陸町の防災庁舎に限らず津波遺構は,特に人が亡くなられているケースは取り壊しも止むを得ない,当然だと考えるのが普通のようです.私みたいに遺族感情を考慮しても尚,残しておくべきだという考え方はむしろ少数派のようです.とは言え,私もこういう事態が自分が生きているうちに日本でありうるとは夢にも思ってもいなかったので,あまり偉そうなことはいえません.今でこそ津波の予測や警報も改善されましたが,東北地方太平洋沖地震以前からそうした活動を陰ながらされてきた方も少なからずいらっしゃいます.そうした人たちの声を真摯に受け止め,地道に考え,出来ることをすべきだったと,私は今感じています.2年前の津波にまつわる私たちの過ちは,将来別の形で繰り返されるかもしれません.そうならないように学び,考え,生きていくのがせめて自分にできることなのかなと,思います.


私が東北沿岸を見て回ったのは震災が起こった年の夏です.当時は既に津波の報道は下火になり,ネットで入ってくる情報から復興が急ピッチで進んでいて,見るものはそんなに残っていないだろう,そう私は考えていました.実際に仙台市からレンタカーで走りまわってみた東北沿岸部は想像を絶する破壊が延々と続く現実でした.行き交うダンプカー,うずたかく積み上げられた津波瓦礫,おそらく住居があっただろうが今は何も無い場所,消えてしまった町など,見るものをどう受け止めてよいのかわかりませんでした.残念ながら今でも自分のなかで受け入れることが出来ていないようです.私が東北を車でみて回った旅の最後の目的地が南三陸町でした.沿岸から内陸部をみて,本来見えるはずのない場所から防災庁舎の赤い鉄筋が目に入り,かつて住居が周囲に沢山あっただろうことや,そこで働いていた大勢の人たちがいたのだと,そう確かに思いました.防災庁舎のはるか内陸まで破壊し尽くしていた津波の威力もまざまざと実感しました.


津波で残っている建物はそんなに多くありません.残っていても,残すことが出来るような安全な物もそんなにありません.“家族をなくされた,お気持ちよく分かります”と言えればどんなにいいかと思いますが,正直,毎日顔を合わせていた人がこういう形で亡くなられる事態は私は経験したことがありません.今後も無いでしょう.少しでも歩み寄れればとも思いますが,人の命はそんなに軽くはありません.とても,残念です.今現在,そうした辛い津波の記憶を保存する方法は現物だけではなく,写真,映像など,沢山あります.しかしそれでも本当にそこにあるものは,説得力が全く違います.海からの距離,鉄骨の重厚な質感,かつてあった街並みの中の位置,感じるものは人それぞれだと思いますが,実際津波を経験したものでなければ伝えられない事は多いと感じています.少なくとも私は東北沿岸に行って,そう思いました.今は傷跡が深く残る東北の沿岸にも,そう遠くない未来に,悲しみが癒え,街並みが戻り,人々の生活に活気が戻る日が来ます.東北地方太平洋沖地震津波の悲劇を直接は知らない若い世代も増えるでしょう.ただ,それでも津波は,またどこかにやってきます.津波の威力を直に伝えられるもの,私たちが何を間違えたのか,それを伝えられるもの,考えるきっかけになるものは,残せるのなら残しておくべきだと,そう思います.将来,津波の悲劇は繰り返される以上,2年前の辛い記憶は,御遺族だけのものにすべきものでも,文献の中に埋もれさせるべきものでもないと私は切に思います.


もう一つ,私は学生という立場上,海外の人と話す機会がそれなりにあります.最近は日本に関心がある人,日本に来た人にはしきりに東北の津波の被災地を見るように薦めています.津波というのは一度起こると甚大な被害をもたらしますが,あくまで稀な自然災害です.海外の地球科学を勉強している人にも津波というのはなかなかどこがどう大変なのか伝わらない,向こうも実感がわかないというのが偽らざる感触です.もちろん,随分消されてしまいましたが,東北の津波の映像というのは今でも多少は見ることができます.しかし,実際に行ってみた人は,手に入る資料からある程度分かっていたつもりでも,眼前の津波の破壊力,その傷跡に圧倒されるようです.そうした津波を伝えることが出来る傷跡も,復興と共に消えてしまいます.もちろん,それでいいのです.そうあるべきだと思います.ただ,津波にまつわる数多くの話は日本では皆さんよくご存知ですが,海外まではなかなか伝わっていません.実は私は自分からは南三陸町の話は海外の人にしたことがありません.今はまだとても出来ないし,正直ちゃんと話ができるかも,自信がないのです.話すだけでも,辛い事です.しかし,私たちがそこから学ぶべきことは沢山あります.津波は日本以外の地域を襲うこともあります.随分長い間,津波が来ていないけど,本当は危ない場所もあります.本当は話さなくてはいけない,伝えなくてはいけないと,私はそう思います.今は,上手くは話せないけど,とりあえずそこに行って見てくださいと,そう言うことも出来ます.


私は大した地震学者でもないし,はっきりいって卑怯者です.臆病者です.人でなしです.そんな私ですが,いつかその地を訪れる人が事実をその人なりに受け止めようとし,考える手がかりを失わないよう,あえて南三陸町の防災庁舎は残してほしい,そうここに書き記しておきます.ここで私が書いたのは自己満足にもならない程度のものです.本当にそう思うなら御遺族の家を一軒一軒頭を下げてまわるべきだと思います.が,力のない,学生の身分の自分がそれをやっても説得力がないし,単なる売名行為にしかならないでしょう.結局大勢の人を傷つけるだけだと思います.あのときああ言っておけばと後悔しないようにと,それだけです.残念ながら,それが今の私の限界です.私はこの文章を将来誰が読むか,分かりません.もしこれを読んで気分を害された方がいらっしゃったら,私の力不足故です.申し訳ありません.罵倒も批判も甘んじて受けます.ただ,もし残してもらえるなら,辛い記憶に私でも多少は近い距離で受け入れようとする努力はできます,今は才能も実力もない人でなしの見習い研究者ですが,それくらいのことは,できます.そのつもりです.


東北を見て回ったあの日,南三陸を去る前に海を見ました.空は晴れていて,海はとても綺麗でした.あんな悲しいことがあったことは,私には,どうしても信じられませんでした.暫く,日本にいる間は,東北にはまた足を運びます.