Kalessin Action ― The Never Ending Endeavour ―

地震・火山専門の研究開発員のブログ。あららぎハカセ(理学)。つくばで高いところに行くモノ🛰の中身を作ってます。

6年目のこの日に

 もう僕の祖父が他界してから6年にもなる。88だったから今もし生きていれば94。もうどうころんでも無理な年齢である。一体に死児の齢を数える愚というが死んだ祖父の齢を数える話は聞いたことがないのは、僕がよほど愚かだからだろう。
 僕の父方の祖父は、僕が浪人して大学にはいったばかりに一度かつぎ込まれ、二度目は帰らぬ人となった。今もまだ生きている祖母だけにみとられ、未明に、だれにも迷惑をかけずに祖父らしくといえば祖父らしく逝った。喫煙したところは見たことがなかったが、ヘビースモーカーだったらしく、僕の高校時代には酸素ボンベを引っ張っていた。喫煙は本人の意思だったとしてもタバコを恨めしく思ったものである。
 僕の幼い頃は、祖父と過ごした、戦争の面影がどこかのこっている日々を抜きにしては語れない。高校までは戦争について自分なりに考え、時に人と話したりしていた。…が、祖父が他界して以来、語る事はおろか考えることもぱったり辞めてしまった。
 変わり者の僕にとって祖父は数少ない理解者、協力者の一人だった。彼の死はあまりに悲痛な欠落であった。馬鹿な話だが僕は両祖父母が大学に入学するまで元気だったのでその時まで親類が亡くなるような経験はしたことがなかったのである。その現実をどうしても受け入れることが出来ず、目をそむけることしか当時の僕には出来なかった。
 祖父が他界して数年。時間か、それとも距離か。ようやくここまできて、少しずつ、大切なものに向き合えるようになり、思い出せるようになった気がする。大切なものといっても随分失われてしまった気がするが、せめて今つかめるものだけでもすがりたい。それくらいはいくら愚かな自分にも許されているだろう。
 祖父の人生は大東亜戦争と彼らが当時呼び、僕が太平洋戦争と習った戦争を抜きにしては語れない。それは祖父がちょうど今の僕位のことだった。孫の僕もどういうわけか日本から遠く離れた地で別の戦いの最中であるが、祖父の行き先は中国・インドネシアやフィリピンであった。あれだけあちこちいっていながらよく生きていたものだと思う一方で戦争の最中どれだけのものを抱えていたかは今となっては知る好もない。医療も今とは比較にならない時代のことである。
僕は聞いたことがなかったのだが、祖父は“生きているものが優先”というのがモットーだったらしい。彼は二度も戦争に行っていて、最後は帰還途中に船を魚雷で沈められて半日近く漂流していたのだが、五体満足であった。“冷たいじゃないか”と思われるかもしれないが、死者への思いで飯は食えない。それは、戦争から生きて帰り、戦後という時代を生き抜いてきた祖父の現実であった。人は、生きている限り、何があっても前に進むしかないのである。そしてそれが命を落とした人たちにできる最大のことだったのだと思う。


 一体平和ボケという単語があるが、僕が記憶している限り祖父がそれに類する事を口にした事は聞いたことがない。一番印象に残っているのはただ周囲の人間が皆死んだという、祖父の口から語られる当時はあまりに当たり前な、あまりに過酷な現実であった。
 よくサラリーマンである父は“会社勤めは大変なんだぞ”という。確かにそうだろう。僕は会社勤めをしたことがない。父にしても息子のように外国で日本語以外の言語で勉強するという体験をしていないから、それはお互い様だと思うのだが、幸いなことに人は死なない。翻って祖父が生き抜いてきた時代。戦争で人がバタバタ死んでいくのが現実であった。数年前に町で小学生の男の子が川で溺れて亡くなってしまい、町中のみんなが悲しんだことがあったが、人一人でもあんなに悲しかったのに町や都市の人間が大勢死んでしまうような状況は、もう僕には理解できない。想像もできない。


 祖父が高邁な戦争の議論をしていたのは聞いたことがない。記憶にあるのは彼が自分の経験を自分の言葉で語っている姿だ。しかし、自分達の経験をないがしろにするようなものには何かしらかの拒絶があった気がする。僕も幼いなりにも戦争の話を聞くときは、そこだけは絶対に踏み越えないように注意していた。それだけは僕と祖父の間で暗黙の了解が状況として成立していたように思う。


 祖父は五体満足ではあったが戦後の過酷な現実は容赦なかった。“農地改革”という言葉を知らない日本人はいないだろう。当時実に農地面積の45%を占めていた小作農地を削減するために行われた政策である。教科書や何かにはいかにも意地悪そうな地主がGHQの悪態をついている姿が描かれているあの政策である。


…祖父は、財産を失った。


 神戸で焼け出され、人に預けていた土地を、一家族養えるだけの自分の土地を頼りにして故郷に戻ってきたものの、土地は返ってこなかった。
 小学生の当時GHQの強硬な政策の正義を無邪気に信じていたが、まさかよりによって自分の祖父*1がそんな目にあっていたとは夢想だにしていなかった。
僕がその事実を知ったのは、祖父が他界して本当に何年も経ってからだった。人が生きていくことの意味、生きる強さを最後の最後まで僕らに伝えてくれたと思う。せめてその現実を乗り越えた人生への敬意は、何があっても僕が失ってはいけないものだと強く思う。
 ただ、こう書いているだけで正直悲しい気持ちになる。どうあがいたって失われた命は戻ってこないし、経験そしてそれにまつわる僕の記憶も日々薄らいでいく。それが、時の流れそして人の命というものなのだろうか。もう祖父としゃべることも出来なければ、今僕が何をどこでどうやって頑張っているかも、伝えようがない。大学入試に失敗したものの、大学時代は頑張ってそれなりの結果は出せたと思うが、そんな自分の姿を見てもらうことも、かなわなかった。苦しい姿ばっかり見せてしまっていた。あの時代を思い、一人一人の人生をまた問うことだけが、せめて自分にできることなのか、正直言うとわからない。


 愚かといわれるかも知れないが、僕の中で何かが変わったあの日から6年、この大陸で曲がりなりにもまた記憶に向き合い、涙できるようになったのも、何も受け入れることが出来なかったあの日々から僕が多少は成長した証だろう。それが感傷にすぎないとしても多分それくらいは認めてくれる筈だ。


 戦争についてどんな高邁なイデオロギーがあるかは専門でもない僕は知らない。“無知だ、お前は戦争について何も知らない。”と理論武装した専門家から糾弾されるかも知れない。僕にとっての戦争は、祖父との日々の中、彼が自分の言葉として伝えてくれた記憶、その家族が受け入れざるを得なかった現実でしかない。一人一人の人生を蹂躙し敬意を払えない知識の集積は、無意味だ。たとえそれがいつか消えゆくものであるとしても、自分が何かしらの形で受け取ったものを忘れないように、せめてまた少しずつでも自分なりの言葉と視点で少しずつ語り考えることを続けていきたい。

*1:専業農家を営んでいた母方の祖父も、そうだった。母方の祖父は、曽祖父が地主だったが、今では簡単に治療できる病気で夭逝し、人に土地を預けざるを得なかった。