Kalessin Action ― The Never Ending Endeavour ―

地震・火山専門の研究開発員のブログ。あららぎハカセ(理学)。つくばで高いところに行くモノ🛰の中身を作ってます。

博士の意味は

 先日このエントリでも話題になっていましたが、”博士の意味ってなんですか”という問いに対する答えは博士を取る人ならきちんと考えておかなくてはならない命題だと思います。
 進学か就職かを悩んでいた時に先生に聞いていたのですが、あまりはっきりした返事はかえって来ませんでした。現段階で彼らをどうこういうのはやや問題があるかなという気がするものの、かなりまずいと思います。なぜならそれは今まで漫然と研究をやっていた可能性があるからです。


 とはいえ、”なぜ勉強するのですか””なぜ人を殺してはいけないのですか(こっちはさすがに当たり前か)”という質問と同じように、聞き続けるだけではだめで、自分でも答えを探し、見つけていかなくてはならない類の問題です。
 50代の博士号取得者をひっくるめる際に留意しておかなくてはならないのは、特に近年、90年代中盤を境にして博士の数とその社会に対する役割が変わってきているということでしょう。40代の研究者、つまり90年代初頭までの博士とは、基本的に大学に残ることを前提としていました。
 90年代中盤を境にして、旧文部省の政策もあって博士の数は増加し、それにともなって博士号=大学に残るではなっています。ただし、社会の受け皿は分野によりますが基本的には乏しく、16/100程度は失業しています。博士を取るにあたってはある程度自分のキャリアの見通しをもっていることは特に今の日本では非常に重要でしょう。


 さて、学部生、修士、博士と課程を経るにつれて、徐々に自分の中でもカテゴリというか、プロセスが見えてきました。基本的に研究の在り方ベースなのですが、まとめてみたいと思います。

1)学部生

  • 基本的には研究分野の基本的な手法の習得過程。
  • 読んだ論文をきちんと理解している。


2)修士

  • 研究開発において主体的に行動できる。ある程度研究方法の調査・実行が可能
  • 自分が関わっている研究についてはその手法・応用例を適切に述べることができる。
  • 自分の研究内容が関連するテーマについては適切な問題設定ができる。
  • 重要な論文とそれに関わっている研究者の研究内容が分かる。


3)博士

  • 研究分野の周囲の重要性を認識できる。
  • 自分が関わっている研究分野の位置付け、手法、その成り立ちが論文ベースで分かる
  • 過去行われてきた研究について論文を引用したうえで議論ができる。
  • これから学問を進めるにあたって何が重要か、何をすべきかというビジョンを持っている。


 つまり学部生の研究が手法の習得、修士が研究の主体的な遂行、博士が発展的な内容を学術的に意味のある文脈で設定できる、ということです。論文を読むということは研究の重要なプロセスの一つですが、どんな論文も過去の研究内容の集積の上に成り立っていて、引用元が明記されています。そうした論文のひとつひとつのつながりが学問の発展であり、博士号取得者はそこをきちんとつかんだ上で研究を行っていくわけです。この論文ネットワークはややもすると専門家の独善に陥りやすいのですが、そこを乗り越えられるのかはひとえに読んだ論文の量と研究者の応用力でしょう。どんな論文も完ぺきではなく、議論の余地があります。そうした議論の境界を、研究内容を踏まえたうえで明確化させていくというのは優秀な研究者の資質の一つといってよいのではないでしょうか。
 論文を読んだり、実際に書いたりする上で痛感するのは自分が読んだ論文の量の少なさとその読解の質です。よく引用されている良質の論文をよむと実に効果的に論文を引用した上で議論を展開しています。こればかりは一朝一夕にはまねできないことです。
 このカテゴリは研究者の質について議論するにあたっても無理のない設定なので、おおかた間違ってはいないと思います。おそらく自分はこの方針を前提に研究すると思います。逆にこういったプロセスを指導のなかに組み込んでいないような人間に指導されると非常につらい思います。


 今自分が問い続け、やがて行動のなかで出していかなくてはならない命題の一つに、”日本から出て博士をとる意味は何か”というものがあります。今時分英語位は博士号取得者はできて当然なので、当然異文化の中で自分がなにを得たか、その意味は何かを考えなくてはなりません。また、ひょっとすると30年後には博士号自体の価値はそれほどなくなっているかもしれません。でも、学問の文脈を踏まえた知識を持っているのといないのとでは研究の効率が全く違ってくると思います。


試行錯誤の日々は続く。